続・祖父、坂本万七のこと
昨年の11月に祖父で写真家であった坂本万七について書いたが、日本経済新聞の本日朝刊の文化欄に伯父の坂本明美(あきよし)が、『カメラで美術研究の力に ◇文化財の写真撮影、親子2代80年間続ける◇』と題して、祖父の写真家としての業績や、その貴重な写真について述べた記事が掲載された。伯父には、先日会ったばかり。母からは、病気をして入院していたと聞いていたが、思ったよりも元気そうだったので安心した。やはり身内が写真入りで、良い内容で新聞に載っているのを見るのは感動するものだ。伯父は、今年70歳を迎えるのを機に、この1月に祖父の仕事を引き継いできた「坂本万七寫眞研究所」を閉じる。祖父が「桃源社坂本写真場」を東京・目白に開いたのが1926年。その間、親子2代約80年に渡って撮られた貴重かつ膨大な写真のうち、築地小劇場の舞台写真は、祖父の生前に早稲田大学演劇博物館に寄贈し、昨年は、仏像や考古遺物の写真を伯父の母校である明治大学に(ちなみに伯父は、明治大学当時、野球部のピッチャーだったので、子供の頃、キャッチ・ボールをしてもらった時に、その速球を受けたグローブのほうの手が痺れた思い出がある)、現代絵画や彫刻、工芸、民芸関係は、それぞれ出版社や印刷会社の研究所、日本民芸館に寄贈したそうだ。祖父は、私が中学生の時に74歳で他界したが、いつも私のことをかわいがってくれた思い出がよぎり、その祖父の地味ながらも偉大なる業績と共にしばし回想にひたった。
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講演集に詳しい記載がありました。
Chinchiko Papa様:
早速、拝見しました。トラックバックさせていただきました(こちらにもトラックバックありがとうございました)。
祖父が撮った写真が掲載されていたので嬉しくなりました。祖父がギターを弾けたというのは初耳です。私が中学生の頃にクラシック・ギターを始めて、1年ちょっとくらいで祖父が他界したのですが、最後のほうで病床にあった祖父のためにヘタクソなギターを弾いて録音したのを聴いてもらったのを思い出しました。私は祖父が音楽が好きなのは知っていましたが、まさかギターが弾けたとは…
。また、何かありましたらば、よろしくお願いいたします。
早速、拝見しました。トラックバックさせていただきました(こちらにもトラックバックありがとうございました)。
祖父が撮った写真が掲載されていたので嬉しくなりました。祖父がギターを弾けたというのは初耳です。私が中学生の頃にクラシック・ギターを始めて、1年ちょっとくらいで祖父が他界したのですが、最後のほうで病床にあった祖父のためにヘタクソなギターを弾いて録音したのを聴いてもらったのを思い出しました。私は祖父が音楽が好きなのは知っていましたが、まさかギターが弾けたとは…
。また、何かありましたらば、よろしくお願いいたします。 1926年の目白通りを記事にいたしました。
先日は、ご教示いただきありがとうございました。
さっそくですが、1926年(大正15/昭和元)の目白通り界隈について、記事にいたしましたのでご笑覧ください。「白樺」つながりの、画家を中心とする往来を不十分ながら調べてみました。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2007-04-12
なにかお気づきの点がございましたら、お気軽にコメントをお寄せください。よろしくお願いいたします。
さっそくですが、1926年(大正15/昭和元)の目白通り界隈について、記事にいたしましたのでご笑覧ください。「白樺」つながりの、画家を中心とする往来を不十分ながら調べてみました。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2007-04-12
なにかお気づきの点がございましたら、お気軽にコメントをお寄せください。よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
ご丁寧にリプライいただき、ありがとうございました。
おかげさまで、たいへん参考になりました。学習院の向かい側といいますと、旧・高田町ですね。わたしは目白通りの西側、下落合と旧・長崎町の「住宅明細図」(1926年当時)ばかりを探していました。
さっそく、目白駅の東側を調べてみます。なにか新たにわかりましたら、こちらへご報告させていただきます。ありがとうございました。重ねて、お礼申し上げます。
おかげさまで、たいへん参考になりました。学習院の向かい側といいますと、旧・高田町ですね。わたしは目白通りの西側、下落合と旧・長崎町の「住宅明細図」(1926年当時)ばかりを探していました。
さっそく、目白駅の東側を調べてみます。なにか新たにわかりましたら、こちらへご報告させていただきます。ありがとうございました。重ねて、お礼申し上げます。
Chinchiko Papa様:
お問い合わせありがとうございます。
故坂本万七の年譜を見ますと大正10年、21歳の時に上京し、品川写真研究所に入り写真術を学び、翌年、人形町の三笠写真館に移り、写真術を習得。大正13年に築地小劇場が開演し、この頃より舞台写真を撮り始めるとなっており、昭和元年、東京都豊島区に桃源社坂本写真場を開くとなっております。私の母(坂本万七の長女)に聞きましたところ、生まれたのが目白の家だったと申しており、場所は現在の目白小学校(学習院大学の向かい側)の1本裏手のところだったと言っています。おそらく、その花屋の2Fにオフィスを開いていたのは結婚前のことで、その場所はおそらく現在の目白駅近辺だと推測されます。
以上、あまり正確な情報でなくて申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。
お問い合わせありがとうございます。
故坂本万七の年譜を見ますと大正10年、21歳の時に上京し、品川写真研究所に入り写真術を学び、翌年、人形町の三笠写真館に移り、写真術を習得。大正13年に築地小劇場が開演し、この頃より舞台写真を撮り始めるとなっており、昭和元年、東京都豊島区に桃源社坂本写真場を開くとなっております。私の母(坂本万七の長女)に聞きましたところ、生まれたのが目白の家だったと申しており、場所は現在の目白小学校(学習院大学の向かい側)の1本裏手のところだったと言っています。おそらく、その花屋の2Fにオフィスを開いていたのは結婚前のことで、その場所はおそらく現在の目白駅近辺だと推測されます。
以上、あまり正確な情報でなくて申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。
お訊ねいたします。
突然お邪魔をしてすみません。
洋画家の河野通勢(みちせい)について調べていましたら、こちらのサイトに行き当たりました。ぶしつけではありますが、もしご存知でしたらご教示ください。
大正末に、河野は目白通りの近く(長崎村1867番地)に住んでいまして、親しい「白樺同人」が出したお店の看板を描いています。1階が詩人・佐々木秀光が経営する花屋、そして2階が「坂本美術写真」のオフィスでした。
このお店が目白通りのどのあたりにあったものか、ご存知でしたらお教えください。よろしくお願い申し上げます。
洋画家の河野通勢(みちせい)について調べていましたら、こちらのサイトに行き当たりました。ぶしつけではありますが、もしご存知でしたらご教示ください。
大正末に、河野は目白通りの近く(長崎村1867番地)に住んでいまして、親しい「白樺同人」が出したお店の看板を描いています。1階が詩人・佐々木秀光が経営する花屋、そして2階が「坂本美術写真」のオフィスでした。
このお店が目白通りのどのあたりにあったものか、ご存知でしたらお教えください。よろしくお願い申し上げます。
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目白に住んだ劉生の知人たち。
先に谷間のユリさんから、岸田劉生の下落合における友人宅の存在を示唆する貴重な情報をいただいた。おそらく「十六歳之麗子像」Click!のひとつ、あるいはその習作と思われる作品が眠っていた、目白通りの杉山宅だ。そして、できたばかりの中村彝アトリエにも姿を見せて





これからも、目白・下落合界隈と「白樺」については調べて生きたいと思っていますので、こちらこそよろしくお願いいたします。
ギターの件は、『武者小路実篤記念館/講演記録集・第三集』(調布市)の河野通明氏の講演に出てきます。河野通勢アトリエにも、しばしば訪れていた様子が記載されていました。調布市の武者小路実篤記念館で入手できると思います。
http://www.mushakoji.org/
ぜひ、ご参照ください。